WHAT'S TAKAOKA?

WHAT'S TAKAOKA?

お約束します

01
お客様、スタッフ、業者様、
そして地域をハッピーに
02
「できない」を言わない!
「できる」に変えるよう努力する
03
固定概念をぶっ壊す!
恐れずチャレンジし続ける
04
しつこい営業はしません

Sustainable Development Goals

Sustainable Development Goals
Sustainable Development Goals

地域の生活に
必要とされる企業へ

「人と自然にやさしい未来へ」を理念のもと
住み心地のよい街づくりに努めます。

具体的な取り組み

  • 住環境改善におけるサービスの向上、提供アイテムの増加
  • ガス保安における基本方針の厳格化
  • 商材供給とともに高齢者の見守りを実施
Sustainable Development Goals

お客様本位の経営

「お客様に対して、より安心・安全且つ
高品質のサービス提供を行います。

具体的な取り組み

  • お客様本位の業務運営に関する基本方針の策定
  • お客様とのコミュニケーションをもとに基本方針をブラッシュアップ
Sustainable Development Goals

地域社会の発展に寄与する
人材、組織づくり

地域社会の皆様に愛される人材育成のために
職場環境を整え、モチベーション向上に繋げます。

具体的な取り組み

  • 長時間労働の抑制、有給休暇制度についてのルール明確化
  • 研修制度の整備および外部セミナー、資格取得費用の補助
  • 社内ジム完備による従業員の健康増進
Sustainable Development Goals

環境に配慮した事業活動

環境に配慮した事業活動を継続し、地球温暖化対策に
積極的に取り組み、環境保全に努めます。

具体的な取り組み

  • 地域資源を商材として採用
  • リサイクルの取り組みとして排出ゴミ分別の厳格化
  • LED、エコカーの導入
クリニックしてみると...?
クリニックしてみると...? 株式会社 髙岡 代表取締役社長 髙岡 雅也 株式会社 髙岡 代表取締役社長 髙岡 雅也

PRESIDENT MESSAGE

1955年より薪、木炭販売からスタートした当社は2022年で創業67年を迎えました。今まで培った成果や失敗をもとに、会社運営、事業展開の考え方を変革する時に来ていると考えています。

これまでの各事業分野のビジネスモデルの再定義を目指す中、髙岡が挑戦していくことは既得権への改革ということが見えてきました。
私たちが取り組むことは「NO」を「NO」と言えるために恐れず挑戦することです。そこで私たちは、現状のエネルギー事業の目線からファイナンス、ライフスタイル、建築の在り方に改革をもたらす提案を行います。
そしてこれらの定義を再構築していくことが解決策になるという考えに至りました。ここで今一度、原点回帰×テクノロジー×イマジネーションの組み合わせを行い、皆様に真意の笑顔を届ける会社を目指し邁進してまいります。

株式会社 髙岡

代表取締役社長 髙岡 雅也

HISTORY 沿革

髙岡は木炭販売からスタートしました

創業期

創業期

1950’s
シベリアから帰還し戦後復興期に創業

第二次世界大戦終了後、4年におよぶシベリア抑留から帰還した1人の男がいた。
髙岡稔と名乗るその男は、後の株式会社髙岡の創業者となり、福岡のエネルギー事業を担うこととなるのであった。

髙岡稔(以下、稔)が生まれたのは1920年(大正9年)のことだった。
稔が25歳になった頃には、第二次世界大戦が終わり終戦を迎えた日本だったが、多くの日本人はソ連によってシベリアへ抑留された。稔もその中の一人だった。
厳しい寒さという過酷な環境の中、稔は生きて日本に戻るという強い意志を胸に奴隷的強制労働に耐え続けた。

稔がシベリアから日本に戻ってきたのは1949年(昭和24年)の10月。終戦から4年もの月日が経った頃だった。
日本に着くや否や稔は唖然とした。なぜならそこは日本ではない別の国の様に思えたのだ。自分がシベリアで死ぬ思いをしていた間、日本は戦後復興期に突入していたのだ。稔は日本でただ1人だけ時間が失われていたような気がしてならなかった。
日本に帰還した稔は、失われた時間を取り戻すべく持ち前のバイタリティを発揮して仕事に汗を流した。漬物製造販売店の奉公から身を起こし、事業は順調に伸びていった。

事業は順調に伸び燃料店から会社へ

稔は、ひとり独立して事業を行うのを好み、人の下で働くことを良しとしない性格だ。
脊振山系から切り出された木材による薪・木炭を単身自転車に積み込んで、福岡市の中心部・中洲周辺の店舗に販売してまわった。高級料亭に店名を刻印した箸を卸していた株式会社はし金本店は、当初からのお客様で、その後も長くお付き合いをいただいた。

ほどなく豆炭・練炭といった木以外の燃料が登場すると、以降は木炭を売ったり帰りにそれらを仕入れ、小分けして自宅周辺の家庭に販売した。稔の仕事は戦後復興にも後押しされ順調に伸び、1955年(昭和30年)には法人化し、髙岡燃料店という名で会社を設立するまでに至った。

発展期

発展期

1970’s
エネルギー革命期に
学生ベンチャーとして事業を担う

稔と、妻サダの間に元気な男の子が生まれた。この男の子こそが髙岡の現会長、髙岡英紀(以下、英紀)である。
英紀は病気の妹を想い少年期には医者を志すも、父である稔の仕事を継ぐこととなり断念。

16歳になった英紀は、高校生になるや否や普通運転免許を取得。学生業の傍ら配達等を担当し、父の仕事を手伝った。英紀は、1960年後半から本格的に父の事業に関わり、学生起業家としての青春を送った。
その頃の日本には、薪や木炭・練炭、石灰といった固形燃料から、灯油、ガスという液体・気体燃料に切り替わるエネルギー革命が起きていた。灯油、ガスの普及は灯油がやや先行していた。コンロにも灯油コンロが使われていた時期があったが、コンロはガス、暖房器は灯油という棲み分けが進んでいくのにそう時間はかからなかった。
こうした中、髙岡燃料店は家業としてのビジネスから、次第に会社におけるビジネスへとその事業形態を整えていくのである。

ガス販売事業者として
安定した成長を遂げる

髙岡燃料店は有限会社髙岡へと社名を変え、福岡におけるLPガス販売事業者の一企業として正式にスタートを切る。
LPガス販売事業を核として、有限会社髙岡は早い時期から多角化を図っていく。
ガス・水道機器等の設備業に、大手家電メーカーの特約店など幅広くこなし、さらなる事業拡大へと繋げていった。だが、どんな事業も新規参入者には厳しい目を向けた。挑戦には常に試練がつきまとうことを英紀は痛感するのであった。

事業多角化への挑戦
人を育てる難しさ

現在、髙岡の事業の柱のひとつであるリフォームの分野でも、事業拡大して間もない頃に1億5000万円もの売り上げをあげたことがある。だが、資金繰りがそれに追いつかず、事業縮小を余儀なくされた。そんな経験を経て英紀が学んだのは、目先の売り上げだけを追いかけることへの恐ろしさだった。

英紀の頭を悩ませていたものは売上だけではなかった。
それは「人を教育すること」だった。仕事に向ける情熱を共有できるほど人材が育っていかなかったのだ。

2000年を迎えたころ、髙岡にとって大きな転機が訪れる。
食品工場の経営をとある人物から持ちかけられたのだ。 「自分が営業ノウハウと販売ルート(顧客)をもっているので、資本をだして工場をつくってほしい」というオファーだった。
「どうにも信用のできない話だ」英紀は若干悪い予感を感じつつも、こいつは何かを私に教えてくれそうな気がする。
そう思い、工場建設にGOをだした。
だが悪い予感は的中。営業のノウハウも販売ルートもすべて嘘だったのだ。すぐにその人物を問い詰めようとしたが、遅かった。残ったのは工場と、工場で働く予定だった従業員10名だけだった。
残った工場と従業員のため、なんとかしなければと英紀は思った。

次の日から英紀はLPガス関連の仕事を午後9時まで働き、その足で食品工場へ向かい夜中の2時ごろまで働く日々が続いた。
自宅に戻り眠るものの、また早朝には工場へ向かう。この時英紀の1日の睡眠時間は4時間もなかった。
そんな日々が半年を過ぎた頃、工場はやむなく閉鎖になった。 自分の力の限界を知り、涙が出た。人に感謝することは分かっていたつもりだったが、本当は分かっていなかったのではないか。
深くそう気づかされた。
それからというもの、髙岡の経営手法は大きく変化していった。
人に感謝し、手を携え、人を活かし育て、ともに伸びていく経営に。

思えば、食品工場建設を持ちかけた人物に抱いたもうひとつの予感も的中していたのかもしれない。
彼は結果として、髙岡に1番重要なことを学んだのではないだろうか。

変革期

変革期

2010’s
大転換期を迎え第三世代へ

髙岡の創業者の孫であり、髙岡の事業拡大の第一人者の息子。
その人物の名は髙岡雅也(以下、雅也)であり、現在の代表取締役社長を務める者だ。

幼き頃の経験を糧に

雅也は幼い頃から好奇心が旺盛で、嫌いな事にも何でも
チャレンジする性格だったので、ひときわ異彩を放っていた。

高校を卒業した雅也は、親の勧めで東シナ海の遠洋漁業へ行くこととなる。
日本を経つ日、たったの数ヶ月がこんなにも長いものかと、この時の雅也はまだ想像すらしていなかった。この時雅也は19歳だった。
船の上はまさに自分との戦いだった。波がいつも穏やかだとは限らないし、何が起こるかわからない。
時には海賊に追いかけ回されることも。
いちばん恐ろしかったのは嵐に巻き込まれたことだと雅也は語った。海に落ちたら助からずそのまま置き去りにされるというので、雅也は必死にしがみついた。自分が無事に日本に帰ることで精一杯だった。船から突き落とされないよう常に神経を尖らせていたため、体力的にも精神的にも限界が来ていた。
生死をさまよっていたかのような数ヶ月を耐え抜き、無事に戻ることができた。
生きているということは、何かを成し遂げ続けていかなければならないということ。大きな事だけでなく、どんな些細な事にでも全力で向き合っていく。雅也はそう心に強く誓ったのであった。
東シナ海の遠洋漁業で鍛えられた精神力を武器に、雅也は保険の代理店経営の道へと進んでいく。

人材教育で活きる”逆手にとる考え方”

若くして保険の代理店経営を務めたことで、当時はお客様や同業者にも煙たがられていた。だが、持ち前の体力と発想の転換で新規のお客様を増やしていった。その結果、売上げ件数で表彰されるほどだった。そんなある時、金融・証券市場制度の大改革、金融ビッグバンが起こった。
他の保険代理店が次々と統廃合していく中、雅也は競争に怯えることなく突き進んだ。結果、売上は多少減ったものの、支障をきたすことなくこの試練を乗り越えたのだ。

生命に危険が及ぶ思いを抱いた遠洋漁業での生死観、し烈な競争をもたらした金融ビッグバンでの経験は、現在にまで続く仕事観につながっている。

次に雅也は自ら経営する飲食店をスタートさせようとしていた。たがその店は立地条件に恵まれていなかった。しかし雅也は その悪条件を逆手にとり、地域に密着した「近所の人たちがパジャマで来れる店」をコンセプトにした。すると予想が的中。
お客様も次第に増え、常連客も増え始めたのだ。人が人を呼び、気軽に地域の人たちが楽しむことができる新しい交流の場を生んだ。さまざまな世代、人種の人と知り合い、考え方、生き方にふれたことが現在の株式会社髙岡の人材教育に活かされているのではないだろうか。

67周年を迎え
髙岡新時代が動き出す

新しい髙岡のリーダーである雅也の柔軟性に富んだ考えは未だに衰えを知らない。
これまでの常識を覆す新たな考え方のもとエネルギーの安全面、価格の改定。建築業界の固定概念の刷新。そしてDX導入による働き方改革。成果はこれからのものも多いが、打つべき手はスピード感を持って打ち続けられている。
古き良きアナログな考え方とこれからのデジタル発想で地域に根差し、豊かな暮らしをつくり、支える事業展開を加えていく、多角化への未来予想図が実現されつつある。
業界の固定概念をくつがえし、新しい発想へ突き進む「髙岡新時代」は、創業67年を超えて、いま着実に動き出している。

ABOUT US

会社名 株式会社髙岡
代表者 髙岡 雅也
所在地 福岡県福岡市早良区早良6丁目14-14
TEL 092-804-2020
FAX 092-804-6467
設立 1955年4月1日
資本金 1,000万円
決算期 決算期 9月(年に1回)
取引銀行 福岡銀行、西日本シティ銀行
事業内容 LPガス販売
電力販売、薪ストーブ販売
LPガス機器販売
家電販売
屋根・外壁塗装事業
ホームメンテナンス事業
新築事業
リフォーム・リノベーション事業
太陽光発電事業
広告デザイン事業
資格取得者 第一種電気工事士
第二種電気工事士
製造保安責任者ガス機器設置スペシャリスト
福岡市排水設備工事責任技術者
石油機器技術管理士
ソーラー施工技術者
液化石油ガス設備士
第二種販売
管工事施工管理2級
建築施工管理2級
二級建築士
宅地建物取引士
危険物取扱者
保安業務員
CPM®︎ (米国公認不動産経営管理士)
既存住宅状況調査技術者

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